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つばめ翻訳のブログ

在宅フリーランスで翻訳業をしています。翻訳の仕事、勉強、イベント、読書と言葉について書いています。

最近読んだ本:『点子ちゃんとアントン』


『ふたりのロッテ』を子どものころに読んだことがあり、エーリヒ・ケストナーの名前にはなじみがあったため、『点子ちゃんとアントン』もすでに読んだような気がしていましたが、実際に開いてみると初めて読む物語でした。

怖いもの知らずで、ちょっぴりおせっかいで、おしばいが大好きな点子ちゃん(トットちゃんみたいな女の子だなと思いました)。観察眼があって、器用で、責任感の強いアントン。二人に共通しているのは、大きくはばたく想像力と、間違っているものは間違っていると誰に対してもはっきり伝える勇気があるところ。でも、典型的な優等生というわけではなく、作者のケストナーはこの二人に苦言を呈してもいます。ケストナーにピリリとした一言を言われているのはほかの登場人物たちも同じですが、アントンのお母さんだけはそれを免れています。訳者の池田香代子さんは、ケストナーが自分の母を投影していたために、アントンのお母さんには厳しいことを書けなかったのではないかという意味のことを、あとがきに書かれていました。

ケストナーは各章の末尾で、登場人物たちに対する客観的な評価や、物語と実社会を橋渡しするようなコメントを「立ち止まって考えたこと」として記しています。この部分は物語の本筋とは別であって、苦痛に感じるようなら飛ばしてかまわないのだと子どもたちにはっきりわかるように、フォントを小さくして印字するよう印刷会社の人に頼んだとまえがきに書いてありました。

全16か所あるこの「立ち止まって考えたこと」の内容が、大人になってから読むと実に胸に刺さりました。自分のことを言われているようで恥ずかしくなったり反省したり、今の日本にも言えるような気がして思いをはせたり。途中、大人になった自分が「さて、今のきみはどうなんだ?」と問われているような気持ちになり、読み続けるのが少し苦しくなりました。でも、おちゃめな点子ちゃんと頼もしいアントンに手を引かれるようにして、最後まで読み通すことができました。

そして、たどりついた最後の「立ち止まって考えたこと」には、自分が子どものころに思っていたこと、そして今、ククを育てながら感じていること、いつかはククにこんなふうに伝えたいと思っていることがつづられていました。その「立ち止まって考えたこと その16 ――ハッピーエンドについて――」より、一部を引用します。

 ところで、みんなはこのことから、じっさいの人生でも、この本とおなじように、ものごとはいつも、こうあるべきだというふうに運び、こうあるべきだというふうに終わると思ったかもしれないね! そうでなければならないし、わきまえのある人びとは、そうなるように努力はしている。でも、いまはそうはなってない。まだ、そうはなってないのだ。
 むかし、クラスメイトがいて、そいつはいつも、となりの子をカンニングしていた。そいつが罰をくらったと思った? ちがうんだ、そいつがカンニングした、となりの席の子が罰をくらったんだ。だからみんなは、ほかの人のせいで罰をくらっても、そんなに驚いていてはいけないよ。それよりも、みんなが大きくなったとき、世界がましになっているように、がんばってほしい。ぼくたちは、充分にはうまいこといかなかった。みんなは、ぼくたちおとなのほとんどよりも、きちんとした人になってほしい。正直な人になってほしい。わけへだてのない人になってほしい。かしこい人になってほしい。
 この地上は、かつては天国だったこともあるそうだ。なんでも、できないことはないんだ。
 この地上は、もう一度、天国になれるはずだ。できないことなんて、ないんだ。
『点子ちゃんとアントン』191-192ページより

私も子どものころは、まっとうに生きていれば「ものごとはいつも、こうあるべきだというふうに運」ぶものだと思っていました。でも実際に生きているとそうでないときもあるのだと、この年になると知っています。

「みんなが大きくなったとき、世界がましになっているように、がんばってほしい。ぼくたちは、充分にはうまいこといかなかった。」というケストナーの言葉には、自責と謝罪が込められているように感じます。続く子どもたちに向けた激励の響きは切実です。

この作品が書かれた当時、ドイツではナチスが台頭し始めていたことを考えると、ケストナーの感じていた切迫感と私が抱えている漠然とした不安を比べるのも不遜かもしれませんが、自分も同じようなことを感じる瞬間があるなと思うのです。

ククがいなかったころは、景気や政治をはじめとする世の中の仕組みについて友達と嘆き、ブツブツ文句を言ってはそれで終わっていました。でも、子どもができると、嘆いて終わってしまうのはちょっと違うのではと思うようになりました。ちっぽけな自分ひとりで何かを大きく変えることは難しいけれど、この先にある世の中をちょっとでもましにしてから子どもに手渡したい。もう遅いかもしれないけれど。

でも、たぶん、ケストナーが願っていたのはそんな大風呂敷ではないのだろうとも思います。点子ちゃんの両親であるポッゲ夫妻や、アントンの先生に対する苦言にそれを感じます。「世の中ではなく、まずは家の中だよ。目の前の子どもと、自分のそばにいる人たちをよく見て」。小さめのフォントで書かれた「立ち止まって考えたこと」と飛ばさずに読むと、ケストナーがそんなふうに言っているように思いました。

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最近読んだ本:Queen's Gambit

チューダー朝ヘンリー8世の6番目の妃、キャサリン・パーを主人公とした歴史小説を読みました。英国の作家Elizabeth Fremantle(エリザベス・フリーマントル)のデビュー作です(2013年刊)。10年前に購入したものの、数十ページ読んだところで挫折してしまい、ずっと本棚にありました。今年、この作品が”Firebrand”というタイトルで映画化され、カンヌ国際映画祭にも出品されたとSNSで知って再び手に取り、ようやく読み通すことができました(『クイーンズ・ギャンビット』のタイトルで2020年にドラマ化され、邦訳がすでに出版されているThe Queen's Gambitとは別の作品です)。
 
チューダー朝を舞台にした書籍は何冊か読んできましたが、6人の妃のなかで一番興味をひかれるのがキャサリン・パーです。処刑されず、離婚されず、病にもかからず、ヘンリーとの結婚生活を生き延びた唯一の王妃。王と議論ができるほど見識があり、自ら執筆して本を出版したこともあったそうです。ヘンリーに働きかけ、前妃との娘であるメアリーとエリザベスの王位継承権を復活させた人でもあります。
 
繰り返し書籍化・映像化されているチューダー王朝が舞台であるにもかかわらず、本作が飽きのこない作品になっているのは、メイドのドット・ファウンテンが2人目の主人公に据えられているからだと思います。キャサリンと立場の違うドットの視点を取り込むことで、屋敷や宮廷の構造、貴族や使用人の人間模様、登場人物の人柄や思惑などが多角的に描かれ、読みごたえが生まれていると感じました。キャサリンには知りようのない継娘メグの本心や、城外に立つ市場の様子、絶望に満ちたニューゲート監獄の内部、使用人同士の率直なやりとりなども、ドットを通して読者は知ることができます。
 
メグが幼かったころから仕えているドットのことをキャサリンもとても信頼しており、王妃になってからも自分の身の回りの世話をドットに任せています。前の5人の妃たちと同じ轍を踏まないよう常に言動に気を配っている慎重なキャサリンですが、ドットの前では人間らしいほころびを見せることもあり、ヘンリーとの寝屋に向かう憂鬱と恐怖をふりほどこうとワインのカップを壁に投げつけたり、宝石の美しさに喜ぶよりもその重さを身につけねばらならない気だるさを見せたりしています。誠実で口の堅いドットだからこそ知りうる、ありのままのキャサリンです。ドットはまるで物語を進めるために作られた人物のように思えますが、巻末の人物解説によると、実際にメグとキャサリンに仕えていた女性だそうです。
 
フィリッパ・グレゴリーのThe Taming of the Queenでは、ヘンリーの寵愛を受けている時期のキャサリンは力強く輝いていました。対して本作では、ヘンリーから摂政に任じられて高揚感を覚える場面などはあるものの、最初から最後までどこか陰のある女性として描かれています。同時に、メグ、メアリー、エリザベス、エドワードら血のつながりのない継子たちを大切にして自分なりの家族を作ろうと心をくだき、ドットをはじめとする使用人たちや、宮廷の道化師、馬やペットのサルにもいたわりを忘れない人でもありました。その優しさと薬草学の心得を持ち合わせていたがために、病床にあった前夫による最期の頼みを断り切れず、ある過ちを犯してしまったことで、キャサリンは生涯を通して罪の意識にさいなまれることになりました。それが、キャサリンにまとわりついて離れない憂愁になっていたのだろうと思います。
 
エリザベス・フリーマントルの作品は、残念ながらまだ邦訳されたことがないようです。本作の映画化をきっかけにフリーマントルへの注目が高まり、本作を第1部とするチューダー3部作などが日本でも翻訳出版されるといいなと思っています。なお、フリーマントルの最新作は、17世紀イタリアの画家アルテミジア・ジェンティレスキを主人公とした”Disobedient”。画家としての天賦の才がありながら同じく画家の父や夫から理不尽な扱いを受け、美術教師による性犯罪のサバイバーとなりながらも、自らの力で美術界の階段を登り詰めていったアルテミジアの生涯が描かれているとのこと。”Disobedient”もぜひ読んでみようと思っています。

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最近読んだ本:『第三の女』/『Third Girl』

原書&訳書の読み比べをしていた、アガサ・クリスティの『第三の女』/『Third Girl』を読み終えました。

HarperCollins Publishers Ltd
発売日 : 2015-09-24

最初は、1日に原書の黙読15分・音読5分→該当ページを訳書で黙読(10分くらい)のペースでキチキチ進めていましたが、物語が佳境に入ってくると原書を読むのをなかなか止められなくなりました。物語の力が、英語を読む量と時間を増やしてくれました。

名探偵ポワロシリーズのひとつです。本作を読み始めるまえはきちんとドラマ版を見たことがなかったにもかかわらず、原書を読んでいるだけでポワロ演じるデビッド・スーシェ氏の動きと吹き替えの熊倉一雄さんの声が脳裏に浮かんできました。スーシェ氏はポワロを演じるにあたりかなり原作を研究したそうですが、今回ポワロの物語をじっくり読んで、スーシェ氏の演技にその研究が生きていたことを実感しました。同時に、日本語でポワロ(スーシェ氏)の独特な魅力を十二分に伝える熊倉さんの声の演技も、あらためてすばらしいと感じました。本作を読んでいるあいだにすっかりポワロが好きになってしまい、NHKで放送されているのを録画して見ています。数週間前には一晩で一挙15作ほど放送された日もあり、まるでポワロ祭りのようでした。さらに、近々『ポワロと私:デビッド・スーシェ自伝』なる書籍も原書房から出版されるそうで、大いに楽しみです。 

これまでは、クリスティというとなんとなく1930年ごろのイメージを持っていました。自動車が走っているけれど馬車も共存していて、お屋敷にはメイドや執事がいて、女性は長いスカートをはいてあまり肌を見せない時代。ちょうど『ダウントン・アビー』のシーズン1で描かれていた社会でポワロが活躍しているイメージでした。が、本作の舞台は1960年代。髪を伸ばし、ヒッピー風の格好をして芸術に情熱を燃やす若者や、外に働きに出たり、男友達と外泊したりする資産家の娘が登場します。これまで私の頭のなかで古色蒼然としていたクリスティ作品の世界が急にカラフルな原色をまとい、ポワロやクリスティが自分ととても近い時代にいたような感覚を覚えました。若者たちの言動に翻弄され、これまでの常識が通じないと困惑するポワロたちもゆかいでした。

今回は訳書との読み比べをするにあたり、小尾芙佐さんの文章が読みたいと思って『第三の女』を選びました。原書を読んでいても筋は終えているし、読むのを止めたくないと思うほどおもしろいと感じているのに、小尾さんの訳書を読むとクリスティの世界が何倍にも濃く深く広がりました。原書では白黒の棒1本で描かれている絵が、訳書ではフルカラーの立体的な映像になって立ち上ってくる感じ。クリスティの文章だって当然フルカラーの映像が浮かぶように書かれているのに、私が読むと平たんな画面になってしまう。自分の英語の読解力がまだまだだと痛感します。一方で、小尾さんの筆力があるからこそ、登場人物たちがはつらつとしたエネルギーを持ったように感じた場面もたくさんありました。

例えば、ポワロの相棒・オリヴァ夫人が聞き込み(のまね事)をしに行ったときに、話を聞いた清掃係の女性のセリフ。

And they're ever so expensive, these flats. You wouldn't believe the rents they ask! (P74)

原書ではこう書かれているのが、小尾さんの手にかかるとこのように。

それにここの部屋代ときたらべらぼうなのよ。あの連中が吹っかける部屋代っていったら目の玉がとびでるわよ、奥さん!(P112)

expensiveと読んだときに「べらぼう」が、Youに「連中」が、askに「吹っかける」が、「wouldn't believe」に「目の玉がとびでる」が出てくるか? ………私だと出てきません。もちろん、翻訳は単語単位でするものではなく、もっと大きなかたまり(セリフ全体、段落、章、1冊丸ごと)で日本語にうつすわけですが、セリフ全体をヒント・条件としてとらえても、こんなに生きのいいセリフを生み出すにはまだまだ修行が足りません。1文で読んでも、ここまでのこの女性の話し方や想像されるバックグラウンドなどを踏まえても、ぴったりなセリフだと思いました。

上記は違う場面ですが、登場人物がたんかを切るとき、相手を追い詰めるとき、開き直ったときなど、ぴりっと締まる感じのセリフが絶妙で、とてもかっこいい。歌舞伎のようだとも思いました。小尾さん、加藤洋子さん、皆川博子さんなど、かっこよくて華がある、山椒のようなセリフ・文章を書かれる翻訳者さん・作家さんが好きで、憧れを感じます。

原書と訳書を比べると、自分が目指す山の高さをあらためて感じてめまいがします。でも引き続きその山を登るため、次はアラン・ベネット作の『やんごとなき読者』の読み比べを始めようと思います。

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最近読んだ本:『楽園のカンヴァス』

原田マハさんの『楽園のカンヴァス 』を読みました。原田さんのペンネームがゴヤの《裸のマハ》に由来していると聞いたことはありましたが、どのような作品を書かれているのかは詳しくは知りませんでした。冒頭を読んでみるとあっという間に引き込まれ、子どもが家にいる土日にも家事のついでにこっそり別室に行って読みふけりました。

読み始めたときは、静謐な地方都市の美術館を舞台に、監視官として働く女性とその娘の小さな世界が語られていくのかと思っていましたが、あるページを境に物語は一変します。海を越えて、時を越えて、ルソーの作品《夢》を中心に複数の人生がつながっていきます。

《夢》はどこかで見たことがありましたが、ルソーのことは詳しく知りませんでした。「素朴派」と呼ばれる彼の作品は、ルネサンス絵画のようなバランスの取れた美とは真逆に位置しているような印象を受けます。私のような美術の素人からすると、わかりにくい作風であるような気もします。『楽園のカンヴァス』は、そんな作品を残したルソーの生き方があってこその物語で、ほかの画家が題材であったなら、こういう本は書かれなかったのではないかと思います。

この本を読みながら、以前見た映画『ミッドナイト・イン・パリ』が度々頭に思い浮かびました。

この作品は、ルソーが生きた時代より10年ちょっと遅い1920年代が舞台ですが、ピカソを中心に芸術家たちが集まる様子は『楽園のカンヴァス 』と共通しています。ピカソの触るとビリっと感電しそうなエネルギーの対極にいた人物であったらしいルソー。ピカソがルソーに注目していなかったら、今ごろルソーの作品はどうなっていただろうかと考えます。歴史のなかに埋もれていたでしょうか。

『楽園のカンヴァス』は美術界を舞台にしたサスペンスでもあり、爽快なスピード感もあって、読書の楽しさを味わいました。サスペンスといっても、他人の手によって人が亡くなる場面はありません。フィクションもノンフィクションも、読んだり見たりするのは好きなのですが、登場人物の感情に共感してストーリーに没入するあまりエネルギーを吸い取られてしまうことが多いので、本作のように死や肉体的な痛みと距離を置いて謎解きを追える作品は私にとって貴重です。余計なことを考えずに楽しむことができ、読み終わるとエネルギーが体内・脳内に蓄えられたような気がしました。「いい本を読んだなあ」と、楽しさをかみしめた1冊でした。

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最近読んだ本:『黒革の手帖』

引き続き、松本清張作品の『黒革の手帖』を読みました。

ドラマは見ていなかったのに、米倉涼子さん、武井咲さん主演で映像化された印象がとても強く、読みながら女優さんの華やかなお姿がずっと頭に浮かんでいました。が、原作の主人公・元子は美貌には恵まれていないという設定です。この点に忠実に主役がキャスティングされていたら、ドラマから受ける印象ももっと違うものになっていたのではないかと想像します。

舞台となった銀座のバー(松本氏は一貫して「バア」と表記)に関する描写が緻密で、家賃、人件費や商品の仕入れにかかる金額の見積もりや、オープンまでの流れ、従業員とのやりとり、他の店との攻防などが繰り返し描かれています。著者の松本氏はさぞバーに通い詰めていたのだろうと思いきや、没後30年を記念して先日NHKで放送された特集番組「わがこころの松本清張」によると、松本氏は普段からバーに通っていたわけではなく、(この作品のためであったかは失念しましたが)執筆のために編集者を伴って店に取材に行き、そのとき見聞きしたことをもとに作品を書いていたそうです。しかも、バーを訪問した際はママやホステスの方たちの目の前でメモを取ることはなく、話の内容、目にしたことをすべて記憶して、のちに文字に起こし、作品に生かしていたのだとか。海外に取材に行ったときも同じで、訪問先に到着して目にしたものの位置、色、姿などをまるで自身がスマホのカメラになったように事細かに記憶して、あとでそれをメモに起こしていたそうです。今、続けて読んでいる松本氏のエッセイ集『グルノーブルの吹奏』(現在は入手しづらいようです)にも、ヨーロッパの街を訪れたときの日記が収録されていますが、迎えに出た人が身に着けているものや顔かたち、部屋の調度品の様子なども細かく描写されていて、こういった情報もその場では文字にせず頭にたたき込んでおられていたのかと思うと驚嘆するばかりです。

[以下、ネタバレを含みます。]
さて、『黒革の手帖』、何度も映像化されていますし、ドラマや原作をすでにご存じの方も多いと思いますが、いやはや、怖い作品でした。以前読んだ『葦の浮船』では悪人がほぼ罰せられることなく逃げ切っていましたが、今回は……。しかも、それが警察によって逮捕されて起訴・裁判・実刑となるのではなく、私刑といいますか、個人たちによって復讐が果たされるため、なおのこと奇妙な後味が残りました。そもそもの発端から主人公は決してほめられないことをしているため、読者としてはまっすぐな同情は寄せにくいものの、主人公が金づるにしようと企む相手にもそれぞれ後ろ暗いところがあり、「あんたたちに復讐する権利はないだろう」と言いたくなるような輩たちです。そのため、「悪いことをしても結局痛い目に遭う」という単純な結論を訴える作品でもありません。しかし、個人的には、主人公も悪女だけれど、それ以上の魑魅魍魎たちに頭脳戦で打ち勝つ姿が見たかったな……とも思いました。

犯人や動機が明らかになる推理小説や、悪者が滅びる勧善懲悪の筋書きなどとは違い、犯罪そのものや人間の黒い部分を読者に徹底的に味わわせるのが清張作品の特徴なのかもしれません。

ところで、先日来、松本清張作品について書いてきましたが、松本氏の敬称をどのようにするのがいいのか、ずっと迷っていました。敬称をつけると、逆に松本氏の作家としての偉大さに傷をつけるような感覚もある一方、呼び捨てにするのもなんだかためらいを感じます。この点を調べていて、手元にもある共同通信社の「記者ハンドブック 新聞用字用語集」は、「人名、年齢の書き方」の項で「敬称をつけない場合」に「歴史上の人物(歴史上の人物として定着したかどうかは没後30年をめどとする)。」を含めていることがわかりました。松本氏は、今年ちょうど没後30年。歴史上の人物として、書き言葉では敬称をつけないのが原則となるようです。この点のほかに、フルネームにしない場合は「清張」と呼ぶほうがいいのか、敬称をつけないのなら松本氏の動作を表すときに尊敬語も使わなくてもいいのだろうか、など、いざ書いてみるとわかっていないところが色々とありました。

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