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つばめ翻訳のブログ

在宅フリーランスで翻訳業をしています。翻訳の仕事、勉強、イベント、読書と言葉について書いています。

無粋なことを

いま受けている文芸翻訳の講座では、事前に指定箇所を訳して提出し、授業開始前に先生ご自身の訳例とほかの受講生のみなさんの訳文をデータでいただくことができます。実際にオンラインで授業が始まると、先生の解説を聞きながら、原文、自分の訳、訳例、ほかの方の訳を適宜見比べていきます。先生はその日の指定箇所の原文をいくつかに区切り、各部分の文章の構造や、訳すときに注意が必要なポイントなどをざっと説明したあと、受講生数人の訳文がどういうふうに表現しているか、間違いやすい部分にひっかかっていないか、訳しにくいところをどう処理したかなどを見てくださいます。

先生の解説を聞きながら自分の訳を省みているとき、自分がやりがちなある間違いに気がつきました。原文があえてぼかして書いているところを具体的に説明しすぎてしまう、ということです。

2016年、翻訳フォーラムに参加し、「原文を読んで絵を描く」というお話をうかがってから、原文に書いてあることを具体的にイメージしようという思いがそれまで以上に強くなりました。その結果、自分のなかで絵を組み立てようとするあまり、原文があえて書いていないところまで補ってしまうときがありました。例えば、原文で冠詞がついていない、数がはっきりしていない、抽象的な単語を使っているところなども、自分のなかのイメージがぼんやりしていることに焦って、絵をクリアにしようと情報を足していました。特に文芸では、作品のテクニックとして作家があえて具体的な表現を避けることは多々あるのに、ぼんやりしているその辺りを「これだと正しく訳せない」と思い、一生懸命絵に描きだそうとしていました。それは本当は、ぼんやりしたものをそのまま訳文にうつせない、自分の日本語表現力の問題だったのに。さらに、具体的な絵を描こうとして足した情報=自分の解釈が間違っていれば決定的な誤訳になり、もう目も当てられません。先生のお話を聞きながら、「自分はなんて無粋なことをしていたんだろう」ととても恥ずかしくなりました。ふだん、日本語のフィクションを読むときは、説明しすぎない文体で書かれたものが好きで、言葉が足りないほど簡潔な文章のなかからはっきりと伝わってくるものがあることや、それを読んだときに自分のなかに立ち上ってくる映像を味わうのを何よりの楽しみにしています。それだけに、人の文章を訳すときに、自分がそんな味わいを台無しにしていたんだな……と思うと、顔を覆いたくなりました。

文芸翻訳の講座でそんなことを感じてからしばらくして、今年の翻訳フォーラムが開催されました。そのなかで、高橋さきのさんが「原文のなかに、わからない情報・わざとぼかしてある情報がある場合もある。そういうときに、『書いていない』ということを把握するのがとても大事」というお話をされていて、「あ、これは文芸翻訳のときに感じたあれだ」と思いました。文芸翻訳の講座では、自分が感じた上記のような思いを口に出して先生に確認はしなかったのですが、期せずしてさきのさんのお話で裏取りができたような気持ちがしました。

翻訳時に「絵を描く」ということを最初にうかがった2016年の翻訳フォーラムでもきっと、「原文に書いていないことは絵に加えない」ということは当然の前提としてお話をしてくださっていたと思います。それを私は、ようやく6年越しに理解できたのでした。

2016年以来、初めて参加できた翻訳フォーラムで「絵を描く」お話のアップデート版をうかがうことができたのも、文芸翻訳の講座と共通するポイントをつかむことができたのも、意味のあることだったと思います。実務と文芸は違うように見えるときもあるけれど、外国語を理解するという点ではやはり共通するものがあるのだとあらためて思いました。

せっかくここで気づくことができたのだから、これからの自分の翻訳にこのポイントを生かし、無粋なことをしないように、ないものは描かず、原著者のほうにも読者のほうにもしっかり顔を向けた訳文を書けるように努めていこうと思います。

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海外のウェビナーを視聴してみました。

 
アメリカのHawk Mountain自然保護区という施設が野鳥に関する無料のウェビナーを開催するとSNSで知り、海外の愛鳥家の様子を少しでも知りたいなと思って申し込んでみました。
 
ウェビナーのタイトルは、”Birdability: Birding Is for Everybody and Every Body!"。調べてみると、Birdabilityとは非営利団体の名称で、さまざまな心身の事情で外に出かけるときに工夫が必要な人をはじめ、人種や性別、性的指向等にかかわらず、だれもがバードウォッチングを楽しめるようにするための活動を行っているとのことでした。
 
ウェビナーの詳細をざっとしか読んでいなかったため、始まる前は、上記のような事情があっても野鳥観察を楽しむ方法などが紹介されるのかなと思っていました。でも実際は、あらゆる愛鳥家に楽しんでもらうために施設がどんな工夫をするといいか、そのためにどんな考え方・視点を持つといいかという、どちらかというと施設を管理する側の人たちに向けた内容でした。とはいえ、inclusive(包括的な)やdiversity(多様性)といったキーワードをアメリカの人たちが実際にどのように仕事に落とし込んでいるかを知る、貴重な機会になりました。
 
特に印象に残ったのは、「birding(バードウォッチング)は『野鳥を愛でる』という単純なもののはずなのに、愛鳥家コミュニティの中にヒエラルキーが存在する。これを取り除いていきたい」と話されていたことです。そのヒエラルキーをなくすひとつの方法として、birdingの関連用語を再定義し(例:bird watcher→birder[目が見えにくい人のことを考えて])、bird walk→bird outing, field trip etc.[歩かない人のことを考えて])、ただ包括的であろうとするのではなく、だれも排除しないという意志を持つこと(intentionally inclusive)を挙げていました。
 
野鳥をめぐって人間同士がなんだか競い合っているみたいだ、と感じたことがあったので、「バードウォッチングにヒエラルキーがある」という言葉にうなずきたくなりました。どれほど鳥に詳しいか、識別をきちんとできるか、何種類見たことがあるか、みごとな写真が撮れるか、希少種を見たことがあるか、どこまで撮影に行ったことがあるかといった話題で、知らず知らずのうちに互いに優劣をつけているような場面に出会うと、観察対象であるはずの野鳥以上に人間の存在を強く感じます。そういうものとは無縁なところで愛でたいなと個人的に思い、図鑑やネットで鳥を見ることも多いです。そのため、バックグラウンドや知識に関係なく、ただそこにいる鳥を見たりその声を聞いたりすることに集中できるように、施設の環境や人々の考え方を整えていこうというお話にとても共感しました。
 
もうひとつ、おもしろいなと思ったのは、Birdability Mapという取り組みです。簡単にいってしまうと、ユニバーサルな設備・環境が整っている野鳥観察地を世界規模でマッピングしていこうという試みです。チェックリストが用意されていて、駐車場やトイレは車いすユーザーにも使いやすいか、ベンチはどのくらい置かれているか、道の形状はどうなっているかなどの項目を実際に現地を訪れた愛鳥家がチェックし、Birdabilityに送信。Birdabilityでその結果を世界地図にまとめて公開するそうです(現在作成中)。SNSで世界各地の野鳥の写真や動画を気軽に見られるようになり、「鳥を見に海外旅行に行くのもありだな」と思い始めていたところだったので、この地図ができたらぜひ参考にして鳥を見に行きたいと思いました。日本の野鳥観察地の情報を投稿するのも楽しそうです。
 
今回のウェビナーは現地時間で夜の7時から行われ、時差を計算してみるとこちらの朝8時からだったので、子どもが登園した直後でなんとか聞けるかなと考え、思いきって申し込むことができました(申し込み後、「Googleカレンダーに書き込む」というボタンがあったので押してみたら、自動的にこちらの現地時間に合わせて登録されたのですごいなと思いました)。時差を有効活用すると、こんなふうに海外でのイベントに参加しやすいこともあるんですね。
 
全編が英語で行われたため、私のリスニング力では全部に追いつくことはできませんでしたが、鳥好きという共通項でいろいろな国のさまざまなバックグラウンドの人たちとつながる可能性を感じました。主催者のHawk Mountain自然保護区は、その名のとおりタカなどの猛禽類を保護する場として作られたそうです。ウェブサイトを見ると広大な山々が広がるすばらしい景色で、ぜひいつか訪れてタカやワシやフクロウを見てみたいと思いました。
 
英語のウェビナーをブログにまとめようとすると、ひとつひとつの情報を確認したり訳したりするのに時間がかかり、自分の理解力はまだまだだなと痛感しました。今回のウェビナーは近々YouTubeに上げてくださるそうなので、公開されたらリンクをはろうと思います。
 
読んでくださってありがとうございました。
 
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鳥ってほんとにすばらしい。

自分の気持ちを落ち着けたいとき、特にこのごろはSNSで野鳥の画像や情報を眺めています。
 
開業時には、野鳥好きが高じて個人事業の屋号を「つばめ翻訳」にしました。野鳥たちの進化の意志を感じさせる多様な姿は、いくら眺めていても飽きません。愛らしい鳴禽類にも、迫力ある猛禽類にも魅力を感じます。……と落ち着いた口調にしようとしていますが、本当は野鳥たちの画像や写実的なイラストを眺めているだけでにやにやしてしまうくらい大好きです。
 
子どものころから鳥に親しみを覚えていましたが、ここのところは図鑑をゆっくりめくる暇もなく、野鳥に向き合うことができていませんでした。そんな折、野鳥の魅力を再発見したきっかけは、羊土社の『鳥になるのはどんな感じ?』という本と、3月のはじめに起きた戦争でした。
 
今の戦争が起きてから、意識して選択しなくても不穏な情報が不意に目に飛び込んでくることが増え、不安な気持ちが強くなりました。テレビや新聞はもちろん、メディアや社会派以外のSNSアカウントからも、戦争に対する悲しさや不安や憤り、国や社会に対する意見、現地での惨状などが流れてくるようになり、SNSを見るのがつらくなった時期がありました。そんなときに、昨年末に購入していた『鳥になるのは~』を読み返し、鳥たちの姿を眺めたり解説を読んだりしているうちに、心が落ち着いていくのを感じました。
 
それからSNSに鳥関連のアカウントだけを集めたリストを作り、戦争の情報をほとんど目にしなくて済む場を作りました。以前からほしいと思っていた野鳥の写真集や鳥類学の書籍も意識して買い集め、手元のコレクションを充実させました。これほど野鳥の情報ときちんと触れ合ったのは、大人になってからはおそらく初めてのことです。自分の中で、子どものころに絵本や図鑑で眺めていた情報と今この年齢で新たに知った情報がつながりつつあり、自分の好きなものの知識が体系的に積み上がっていく楽しさを感じています。
 
 
今年になってから、こんな鳥関連の本を読んで(買って積読にして)います。
ブクログの機能を活用し、書影が表示されるよう修正しました。タイトルをクリックするとAmazonにとびますが、アフィリエイトではありません。2022/6/15)
 
原著者がユーモラスに語る鳥の魅力をなめらかな翻訳で楽しめます。鳥のイラストが大きくきれいで見ごたえがあります。近ごろ、鳥類学の世界で八面六臂の活躍をされている川上和人先生の一言解説つき。著者、翻訳者、解説者、出版社の野鳥への愛情を感じます。
 
見た目や習性が独特な鳥たちを集めた1冊。グロテスクさと紙一重の特徴的な鳥の姿(肉垂とか)に半ばおののきながらもたまらない魅力を感じます。そのポイントが筆者と近く、私にとってはとてもツボにはまった本でした。
 
「どでか図鑑」とある通り、巨大な写真が売りでしたが、紙版だとせっかくの写真がノド(本の真ん中)で割れていたり、ピントがボケたりしていることが多く、もったいないと思いました(ただ、現在紙版は入手しづらいようで、古書は定価以上の価格がついているものが多いです)。
 
小型・中型の繊細な見た目の鳥たちが集められた1冊。こちらは写真の品質がすばらしく、羽弁が見えるほど目を近づるのも、遠ざけて鳥の全体像を眺めるのも、どちらも楽しめます。
 
『変な鳥 ヤバい鳥』に比べるとそれほどヘンテコな鳥は含まれていません。ちょっとクセのある鳥たちの風貌・習性や、いまいちな和名をつけた鳥類学者などに、川上先生がツッコミを入れています。
 
ちょうどツミ特集だったので即買い。わが家の近所では日常的に見られる猛禽類はトビくらいなので、ツミが見られたらと思うと興奮していまいます。積読。
 
言わずと知れた、川上先生のご著書。ずいぶん前に本作の存在を知っていましたが、鳥好きとしては鳥類学者には鳥が好きでいてほしかったので、なかなか手に取れずにいました。しかし、実際に読んでみると、野生の鳥の生態を研究する地道さ・汚さ・大変さが描かれているものの、それでも研究を続けるほど川上先生はやはり鳥がとてもお好きなのだと感じました。
 
日本鳥学会の100年の歩みをまとめた1冊。積読。

だれもが一度は感じたことのあるこの疑問を鳥類学者が解説。仮説の立て方→実証→さらなる仮説→実証を繰り返して事実を突き止めていく、研究者の取り組み方を垣間見ることができます。
 
英国の作家R. A. Hutchinsさんが自費出版した、お菓子作りとインコをテーマにしたコージー・ミステリ。表紙にも描かれているインコが謎解きに参加するのかしないのか、どうかかわってくるのか、楽しみ。積読。

日本人に身近な鳥のひみつがテーマ。4コマ漫画と川上先生の解説が交互に進みます。
    
驚くような鳥の能力を紹介している本。積読。

ある翻訳本で鳥の和名が気になって、「文学に出てくる野鳥に関する本ってあるのかな?」と思ったらまさにそんな本がありました。英米日の(主に古典)文学作品にどの野鳥がどんなふうに出てくるか、当時のその国の人々(社会)がその種をどのようにとらえていたかがまとめられています。

 
まだ読み始めたばかりですが、語学辞典や教科書も数多く出している大修館書店の書籍なので、文学部の授業を受けているような濃厚な内容です。初版発行は1981年。著者の方々はみなさんもともと野鳥に興味があり(野鳥の会会員の方もいらっしゃるほど)、大学で文学を教える立場になってから本作品を共同執筆することになったようです。前述の『鳥学の100年』と合わせて読むとおもしろそう。
 
色々な鳥の本を楽しみながら、少しずつ鳥類学等に関する語彙を吸収して、今後の仕事に役立てていきたいと思っています。
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結婚後の言葉遣い(ヒストリカルの場合)

今年は私にしては珍しく、NHKの大河ドラマを見ています。疲れがたまっていた昨年末、三谷幸喜さんの作品のおかげで気分転換ができたので、今年は1年間お供することにしました。大河ドラマを録画してまで見るのは今年が初めてかもしれません。

(*この後少し大河のネタバレがあります)
さて、これまで見た回では、主人公・義時が長年思いを寄せていた女性・八重と、頼朝の弟が義時の妹と夫婦になったのですが、それまでずっと相手の女性に対して敬語で通していた男性たちがどちらも婚姻後は敬語を使わなくなったことに気がつきました。対して女性たちのほうは変わらず夫に対し敬語を使っています。義時と八重でいうと、北条家の当主は伊東家の当主の娘婿という関係にあり、さらに北条家は伊東家よりも兵力がずっと少なかったそうで、特にドラマ開始当初は、北条家の面々は伊東家側に頭が上がらない、という印象でした。そのため、義時と夫婦になる前は八重のほうが圧倒的に立場が上であるように見えていましたが(義時にほれた弱みもあったから?)、結婚を境に義時が敬語を使わなくなったことで二人の関係性が逆転したように思われました。結婚によって八重が北条の家に入り、家の格としては同じになったということでそういう描写になったのではないかと思いますが、気の強い凛とした八重がすてきだったこともあり、結婚した途端に義時に仕えるような雰囲気になってしまって少しもったいないような気持ちもしました。

この点が印象に残ったのは、昨年度受講していた文芸翻訳講座の課題作品に、階級の異なる二人が思いを通じ合わせる場面があり、そのときに敬語をどう扱おうかなと迷ったためでした。女性主人公は上流階級の一員であるのに対し、男性主人公はその女性に雇われている立場だったので、先生も私たち受講生の多くも、二人の思いが通じ合う以前の部分では男性は敬語を使って話しているものとして訳していました。二人が恋仲になったあとは男性の敬語をどうするか? という点は、疑問のひとつとして私の中に残りました(授業では後半部分を扱わなかったため)。自分が訳すとしたらと考えると、恋人同士になったら男性に敬語を使わせずに二人を対等な言葉で会話させるほうが親密感が増し、しっくりくるような気がしました。一方で、急に男性の敬語をなくすことで男性が女性の上に立ったような雰囲気が生まれてしまうのではないかとも考えました。その男性のキャラクター設定からいっても、恋人同士になったからといって敬語をすっぱり使わなくなるとは限らないようにも思われました。

大河ドラマを含め、ヒストリカルフィクションでは洋の東西を問わず、夫婦や恋人になると男性が敬語なし、女性が敬語ありで話すようになることが多いように思います。結婚すると*主導権を握った夫に妻がついていくことをよしとする当時の空気感や、結婚によって女性が男性の所有物になったこと、男性が女性を庇護あるいは支配する立場になったことなどを暗示するのに有効な小道具として敬語が機能しているようにも思われます。

役割語と同様に、敬語は使い方によって登場人物の人間関係を如実に表すことができるものです。物語の雰囲気も変わります。しかし、古い時代を舞台にした作品だからといって、結婚した女性キャラクターは敬語で、男性キャラクターは敬語なしで話す方が本当にいいのか。実際のところ、当時の女性は夫や恋人に対してそれほど敬語を使っていたのか。これからヒストリカル作品を訳す際は、その辺りのことも考えたり調べたりしたうえで言葉遣いを決めていくと、読者がより共感できる作品になる可能性もあるように思います。

(*投稿前にJust Right!にかけましたら、下から2段落目の「夫が主導権を握り妻がついていく」という部分を「夫唱婦随」と書いていたところ、不快用語と指摘され、「男性優位社会の差別・偏見を生む表現は使わない」というメッセージが表示されました。その考え方を推奨するのではなく、過去にそれがよしとされた時代も実在したのでは? という文脈で使うなら問題ないのではと思いましたが、一応言い換え、こちらにその旨追記いたしました。)

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隠れる/隠す・生む/生まれる

先日、毛布を広げて頭からかぶった子どもが、「かくす! かくす!」とはしゃいでいました。どうやら「自分のことを隠してるんだ」と言っている様子。「そういうときは『隠れる』って言うんだよ」と話しながら、「『隠れる』は自動詞なのに受動態みたいな形だな……」とぼんやり考えていました。

改めて検索しましたら、「隠れる」はラ行下一段活用動詞で、「れ」は活用語尾の一部だそうです。受動態でもなんでもないし、「~れる」で終わる自動詞は他にいくらでもあるのに(潰れる、腫れるなど)、「れ」が入ると何となく受動態っぽいと感じてしまうなんて、私の語感はなんともいい加減です。たぶん、同じ音である助動詞「れる」に受け身の意味があるので、受動態を連想するのではないかと思います。

毛布に隠れた子どもを見ながら思い出したのが、高校の現代文の教科書にあった「I was born」という詩です。長年教科書に採用されているそうなのでご存じの方も多いと思いますが、一部抜粋しますとこのような作品です。


その時 僕は<生まれる>ということが まさしく<受身>である訳を ふと諒解した。僕は興奮して父に話しかけた。

−−やっぱり I was born なんだね−−
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
−−I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね。−−

(『現代詩文庫12 吉野弘詩集』[思潮社、1968年]より)


高校生の私は、教科書の思惑通りといいますか、なんとも素直に「本当だ。『生まる』、"I was born"、両方とも受け身だ」と強い衝撃を受けました。それからは、「生まれる」、"be born"という言葉を読んだり使ったりするたびに、誕生する存在にとってはそれが自主性を超えた状況であることに思いを馳せてきました。

現代文の授業では「生まれる」と"I was born"について文法の側面からの詳しい説明はなかったように記憶しており、今回テーマとして書くにあたり、改めて大辞泉をひいてみました。すると、「生まれる」も、「隠れる」と同じラ行下一段活用の自動詞ではありませんか…! さらに"I was born"のほうも検索すると、「動作主を表すbyを補えないから典型的な受動態とはいえない」という説明がありました(「誕生を表す動詞の特殊性」平塚徹氏[京都産業大学])。

上記のリンク先で例文が引かれていた統語論の洋書の内容は確認できなかったのですが、「動作主を表すbyを補えないと受動態とはいえない」という説明が本当にそうなのか確信が持てなかったので、愛用の『英文法解説』を開きました。「受動態の文は、by~がある例よりもない例のほうが圧倒的に多い(p.274)」とあり、by~がなくても受動態にはなると言えそうですが、残念ながらbornに関する解説が見当たりません。

次に、手持ちの2冊目の文法書『徹底例解ロイヤル英文法』を開くと、「§176 注意すべき活用の動詞」の注に次のような説明がありました。


bear:「産む,運ぶ,耐える」の意味では bear―bore―borneと活用するが,「生まれる」という意味で受動態になる場合,後にby〜が続くときは borne を用い,「(いつ,どこで)生まれた」という意味では過去分詞の born を形容詞的に用いる。
My mother has borne three children. (母は子供を3人産んだ)
Philip was borne by an unknown woman.(フィリップは無名の女性の産んだ子である)
He was born in 1955. (彼は1955年に生まれた)


byで動作主を表すけれど、bearの過去分詞はborneとbornがあり、"born by 動作主"にはならないということですね。

”was born by"ではなく"was borne by"になるという点が盲点だったせいか、まだ半信半疑で、英和辞書も引いてみることにしました。

文法解説が易しい表現で書かれている印象がある『ルミナス英和辞典(第2版)』の動詞bearの項にはこのようにありました。


普通に「生まれた」の意味を表わす場合には be born を用いる(略). しかし, 能動態の完了形のときと後に by が続いて受身の意味が強いときには過去分詞 borne が用いられる.
♦I was born in 1962. 私は 1962 年に生まれた.
♦She has borne several children. 彼女は数人子供を産んだ⦅★She has had several children. のほうが普通⦆.
♦Margaret was borne by the queen. マーガレットは王妃の産んだ子であった⦅★Margaret was born to the queen. のほうが普通⦆.


「後に by が続いて受身の意味が強いとき」とあるのを見て、「受身の意味が弱いときはどうなんだ?」と思ってしまいました(そもそも、「受身の意味が強い」とは……?)。さらに、同じルミナスには"be born"がひとつの「自動詞」として見出し語になっていたため、「え、受動態の形で自動詞?」と面食らい、念のため英英辞典へ。

"Oxford Advanced Learner’s Dictionary"では、


(used only in the passive, without by)1  (abbr. b.) to come out of your mother’s body at the beginning of your life


とあり、冒頭に「受動態のみで使う、byはつかない」と但し書きが書かれていました。やはり受動態ではあるようです。

"Longman Dictionary of Contemporary English"に至っては


1 be born
when a person or animal is born, they come out of their mother’s body or out of an egg:
(略)
be born into/to/of sth (=be born in a particular situation, type of family etc):


というシンプルな説明。もはやbyがどうのとは書いていないので、後ろに続く前置詞は例文で把握してね、ということでしょうか。

ここまで調べて、「"I was born"は受動態である。ただし、born byの形にはならない」という結論に至りました。

なぜbyでbornの動作主を表さないのかは、①「bear[産む]という動作の結果を表すborne」と「誕生した状態を表すborn」という、2つの過去分詞の違いが関係しているのではないか、②byで動作主を表すと主語(生まれたほう)よりも動作主(生んだほう)にウェイトが置かれすぎてしまうが、それならShe has had several children.のように動作主を主語にした能動態のほうが自然だからではないか、という2つの説を推測しましたが、ここまで調べてまとめるのに思いのほか時間がかかってしまったので、今回はここまでとします。

「隠れる」、「生まれる」という言葉のおもしろさについてちょっと書いてみようと気軽に始めましたが、思いがけず沼地に足をつっこんだような形になってしまいました。日本語の動詞の活用形や受動態については、ちょっと調べただけで多くの論文がヒットするなど、今回書こうとしたことが大きな一研究分野なのだとわかりましたし、日本語の口語を説明する語彙が自分に全然なかったことも実際に書いてみて気づきました。

うまくまとめられませんでしたが、翻訳の仕事中に辞書、文法書、ネットなどを行ったり来たりして調べて裏取りに至るまでの過程を思いがけずお見せする形になったように思います。

お読みくださってありがとうございました。

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