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つばめ翻訳のブログ

在宅フリーランスで翻訳業をしています。翻訳の仕事、勉強、イベント、読書と言葉について書いています。

定訳の裏取りのこと(チェック担当のつぶやき)

あちこちのでっぱりをちょちょいとつついて積み木のタワーをまっすぐにするような、すい~っとかんなをかけて指先でしかわからないざらつきをなめらかにするような、そんな感覚になる翻訳チェックの仕事がけっこう好きです。「ほぼリライト」というような大変な案件にはこれまで当たってしまったことがないので、こう言えるのかもしれません。

私が発注していただくのは英語ネイティブの方が訳した日英翻訳のチェックが多いので、原文の意味の取り違えがないかを日本語ネイティブとして確認することを中心に、誤字・脱字・訳抜け・固有名詞等の裏取りなどを行います。翻訳者の方が仕上げてくださったものを第三者の目で見て、品質を高め、保証する仕事。チェック業務は英語で「quality assurance (QA) check」と呼ばれることがありますが、まさにそのような認識で担当しています。

これまで翻訳講座やアメリアの定例トライアルの解説・添削を受け、翻訳フォーラムなど業界関連のイベントで先輩方のお話をうかがってきた中で、組織名や人名などの固有名詞、該当分野での定訳は翻訳段階で確認し、翻訳者が責任をもって訳文に反映させるものだと思っていました。どうしても定訳の裏取りに至らなければ、それはコメントなりで申し送りをし、次の段階を担当する人に確認を依頼するものだと。既存の定訳と統一することが書き手の意図した情報を読み手に正確に伝える一助になりますし、逆にターゲット言語の名前を自分で編み出せるからと公的な情報を無視すれば、読み手が混乱してしまう可能性もあります。信頼できる情報源で定訳がすんなり見つからず、時間がかかって納期との戦いになることもありますが、事前に依頼者から特別な対応が指示されていなければ、定訳の確認をしながら訳すのが基本と思って翻訳の仕事をしています。

しかしこのところ、チェックを担当した際に、定訳を確認していないのかも? と思うような文章と出会うことが度々ありました。チェック案件を受けるときには、公的な情報を訳出時に確認しているものと思って工数を見積もっているため、いざチェックを始めてからオリジナリティーあふれる訳文であることがわかると焦ります。しかるべき情報源で裏取りをしていない(と思われる)場合は、名詞の確認と統一だけでかなり時間を取られ、訳文全体の品質を十分に保証するのが危ぶまれるときもあります。

こういう状況になった場合、その「オリジナル具合」や用語集の有無などによって、翻訳を担当した方に一度戻して用語をそろえてもらおうか、納期の延長や報酬の上乗せを交渉しようか、など色々な対応策を考えますが、すでに案件が走り始めてしまった後では気が引けて、納期に間に合わせるために泣く泣くそのまま仕事を進める、というときも正直あります。このようなことにならないように、打診を受けたときに「表現を統一すべき用語集や情報源の指定はあるか」などを確認するようにしていますが、そのとき「ある」と回答されたにもかかわらず、訳出時にその資料と統一していなかった、ということもありました。

「訳出時に1回、チェック時にもう1回情報源を確認する」のと「訳出時は自由に訳して、チェック時に公式な情報とそろえる」のとでは、どんなにチェック時に調査を綿密に行っても、仕上がりの品質にやはり差が出てくると思います。けれど、「翻訳するときに用語を統一して!」と言ってしまうのは簡単ですが、昨今の短い納期に間に合うように訳すためには、用語統一のためのリサーチ時間が限定されてしまうという事実もあります。訳出のタイミングだけに用語をそろえる負荷を集中させるのではなく、翻訳の仕事の上流から下流までそれぞれができる予防策を行うと、用語が適切にそろった翻訳に仕上げやすいのではないかと思います。例えば、

・翻訳発注者:用語集を支給する、表現の基準となる資料があれば共有する(特に固有名詞の多い原稿)
・翻訳仲介業者:用語集・資料の共有について発注者と相談する、翻訳者に用語の統一について事前に周知する
・翻訳担当者:用語統一の有無について自分から確認をする、信頼できる情報源での確認を大切にする、適切に申し送りをする
・チェック担当者:見積時に用語統一について仲介業者に確認する、信頼できる情報源で裏取りをする、裏取りできなければ適切に申し送りをする
などなど。

何より、自分が翻訳を担当するときにはきちんと情報の裏取りをしようと肝に銘じつつ、今日も人さまの訳文にかんなをかけています。

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片桐はいりさんのエッセイを読んで

もっと本を読みたい!と思いつつ、主に読書の時間が取れるのは子どもが寝た後。せっかく寝入った子どもを起こすようなことをする気力はすでになく、明かりもつけずにふとんも出たくない、となると、横になったままこっそりスマホで電子書籍を開くことになりがちです。

最近続けて読んでいるのは、俳優・片桐はいりさんのエッセイです。

最初に、映画『かもめ食堂』のロケを中心に北欧との出会いを描いた『わたしのマトカ』。

次に、映画館という「施設」にまつわるエピソードが綴られた『もぎりよ今夜も有難う』。

そして、中米の小さな国で暮らしている家族とのかかわりを書いた『グアテマラの弟』を、今読んでいます。

せわしない1日をなんとかこなした後は、できれば穏やかに、構えずに読めるものがいい。芸能人の方が書いた本なら、手軽で軽妙で、そしてほどよく華やかな刺激がありそうだから、寝る前の暗がりでの読書にぴったりでは、と思って選びましたが、片桐さんの書く本はそんな浅はかな言葉で説明するのはもったいないほど、奥行きがあってユーモラスで、渋みも散らされた、読み応えのある作品です。片桐さんは自身のことを「特殊俳優」とおっしゃっていますが、画面越しに見る演技をされている姿とはまた違う片桐さんに会えたように感じます。というよりも、画面では見えない側面(片桐さんの本体、といいましょうか)があるからこそ、映像作品であの存在感が醸し出されているのかもしれません。

どのエッセイでも、好奇心いっぱいな、でもどこか冷静さを保ったまなざしで片桐さんが物事を見つめているのを感じます。そこに吹いていた風のことも文字に起こせそうなくらいの、言語化と結びついた観察眼。あわよくば、脚本に仕立てて作品のひとつも撮ってやろうじゃないの、と常に思っていらっしゃるのかもしれません。

どうやったらうまく書けるようになるんだろうか、と思ってばかりの素人の私には、その「観察眼」が足りていないと、色々な方のエッセイを読んで思います。見ていても、見えていない。景色や感覚が素通りしていって、文字で描写しようと思うとできないのです。「原文の言っていることを頭の中で『絵』に描いて、それをまた別の言語で書き直す。それが翻訳」と教えていただいて以来、それを意識して翻訳の仕事をしていますが、目の前の現実も文章化できないようでは文字で書かれた内容を鮮明な『絵』にできないのも当然か。

北欧・映画館・家族に対する熱い愛情をほとばしらせながらも、独りよがりにならない片桐さんの文章。その秘密はきっと、まなざしの冷静さなのだろうと思います。

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