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スコットランドの公爵夫人ジェーン

ブログ翻訳007
すっかりご無沙汰してしまいました

今回は、前回と同じリージェンシー文化に詳しいレイチェルさんのブログから。
「ジョージアン時代の母親の中で一番野心的だったかも?」
というレイチェルさんのつぶやきに興味をひかれて翻訳しました。
身近にいたら困るけれど、
歴史小説やドラマで野心的な女性を見るのがけっこう好きです


ジェーン・ゴードン(ゴードン公爵夫人)(1748~1812年)
by レイチェル・ノールズ
1_Duchess of Gordon from Wraxalls Posthumous Memoirs v3 1836v2

ゴードン公爵夫人ジェーン
(N・W・ラクソール『遺稿回想録集』(1836)より)


〈生い立ち〉
 ジェーン・マックスウェルは1748年ごろ(1)、第3代モンリース(2)準男爵のウィリアム・マックスウェル卿とその妻マグダレンの娘としてエディンバラに生まれた。

 幼少期にはエディンバラのハインドフォード・クローズに母と姉妹と住んでいた。少々おてんばで、エディンバラ市街のハイ・ストリートを豚の背に乗って駆け抜けていたという逸話も残っている。

〈『ガロウェイの花』〉
 ジェーンは並はずれて美しい女性で、そのうるわしさを称えて『モンリースのジェニー』(2)という詩が作られたために『ガロウェイの花』とも呼ばれていた。

 才知があり、疲れ知らずに見えるほど活力にあふれたジェーンだったが、率直な物言いをしがちで、相手にいつも気に入られるわけではなかった。

〈華々しい結婚〉

2_Alexander, 4th Duke of Gordon from the Gordon book
第4代ゴードン公爵アレグザンダー
(『ゴードン家の歴史』(1902年)より)


 1767年10月23日(3)、ジェーンは第4代ゴードン公爵アレグザンダー・ゴードンとエディンバラで結婚式を挙げた。二人は7人の子どもに恵まれた。シャーロット(1768)、ジョージ(1770)、マデリーン(1772)、スーザン(1774)、ルイーザ(1776)、ジョージアナ(1781)、そしてアレグザンダー (1785)である。

 悲しいことに結婚生活は幸せなものではなく、二人の気持ちはずっとすれ違ったままだった。公爵には長年ジェーン・クリスティーという愛人がおり、妻ジェーンの逝去後に再婚した。ジェーンは別居後、インヴァネスシャーのスペイ川のほとりのキンラーラ・ハウスに住んだ。

〈スコットランド社交界の華〉
 ジェーンはエディンバラ社交界を牽引し、初期にはゴードン・キャッスル、後にはキンラーラで大勢の客人を盛大にもてなした。

 ハイランド地方の社交界の活性を目的に1788年に設立されたノーザン・ミーティングの後援者であり、スコットランド生まれの詩人ロバート・バーンズも援助していた。


3_Robert Burns from The Complete Works of Robert Burns 1865 2
ロバート・バーンズ
(『ロバート・バーンズ著作集完全版(1865)』より)


〈農業改革者〉
 ジェーンは、バデノックやストラスペイのゴードン家の所領経営に自ら積極的に取り組んだ。農業改革に賛同したジェーンは、亜麻の栽培を始めてキンガスジーにリント布工場を建設し、亜麻産業を興した。

〈政界の女主人〉
4_William Pitt - vol 1 p555 - lightened
ウィリアム・ピット
(ロバート・ハイシュ『ジョージ4世の思い出』(1830)より)


 強い野心を持ったジェーンはトーリー党で、ホイッグ党にとってのデヴォンシャー公爵夫人ジョージアナのような存在になろうとした。政界屈指の女主人となり、ロンドンのペルメル街の自宅で贅を尽くしたパーティーを主催した。

 ウィリアム・ピットを献身的に支持し、ピットだけでなく彼の親友でありもっとも親密な相談相手であったヘンリー・ダンダスとも親しくなったが、ダンダスはジェーンの愛人でもあると噂されていた。ジェーンは下院での討論会を傍聴することもあり、大臣たちの足並みをそろえる”院内幹事”のような役割も担っていた。

〈デヴォンシャー公爵夫人のライバル〉
5_Duchess of Devonshire from Wraxalls Posthumous Memoirs v3 1836 v2
デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナ
(N・W・ラクソール『遺稿回想録集』(1836)より)


 ナサニエル・ラクソールはジェーンを次のように描写している。「女性らしい所作、知性の高さ、物腰の優雅さ、いずれにおいてもライバル[デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナ]の足元にもおよばない。しかしこの公爵夫人[ジェーン]には役に立たぬとは言えない素質がある――いかなる障害も揺り動かせない不屈の精神、豪胆な執念深さ、平凡な慣例に縛られぬ奔放さ――高貴な希望、利害を見極める目がそれらを突き動かしている」(4)

 しかし、ジェーンのことをあまり快く思わない者もいた。レディ・メアリー・クックは1787年の手紙の中で「すばらしい知性の持ち主[ウィリアム・ピット]が策略家の女性にだまされたのはこれが初めてではないでしょう」と綴っている。

 メアリーはこう続けている。「ゴードン公爵夫人は、わたくしの親しくしているレディ・ブリストル[レディ・エリザベス・フォスターの母]と似ていて、人柄も物腰も、策略に富んだところも彼女のようです。それに彼女同様、目的を遂げるためならどのようなことも厭いません。そのような人は危険であるに決まっています」(5)

〈ファッションリーダー〉
6_Duchess of Gordon, La Belle Oct 1808
ゴードン公爵夫人ジェーン
(『ラ・ベル・アッサンブレ』(1808)より)


 1808年、ファッション誌『ラ・ベル・アッサンブレ』はこう断言した。「ゴードン公爵夫人をおいてファッション界の成功者として選ぶことのできる現代女性などいない」。

 ジェーンはデヴォンシャー公爵夫人ほど流行を作ることに成功したわけではなかったが、1791年にはタータンを世に広く普及させた。ゴードンタータンのドレスを着て接見会に出席したのだ。ホレス・ウォルポールはジェーンのことを『ファッション界の女帝』(6)と呼んだ。

 ジェーンはまた、スコティッシュダンスを流行の最先端に押し上げた。ナサニエル・ラクソールは次のように述べている。「公爵夫人は手始めに、大夜会でその風習の話題を持ち出した。延々と続くカードゲームの最中に感じよく紹介し、それだけでなく、愛国的な熱意を込めてスコッチダンスを披露した。それまでファッション界ではまったくの無名だったそのダンスを」

〈ゴードンハイランダーズ〉
 ジェーンは1794年、対仏戦争参加前に兵士を徴募していた新しい歩兵連隊――第100ハイランダーズ――を支援する。軍服を身にまとい、大きな黒い羽飾りのついた帽子をかぶって公爵の領地を巡り、国王の硬貨――兵役契約の証の1シリング貨――を唇にはさんで応募者に授けた。連隊番号は1798年に変更され、第92歩兵連隊となった。

〈家族の野望〉
7_Duchess of Richmond from La Belle July 1807
リッチモンド公爵夫人シャーロット・レノックス
(『ラ・ベル・アッサンブレ』(1807)より)


 彼女の野望は政治的なものばかりではなかった。ジェーンは自分のまとめた5人の娘の縁談を大変誇りに思っていた。娘たちの夫のうち3人は公爵、一人は侯爵だった。シャーロットはチャールズ・レノックス大佐、後の第4代リッチモンド公爵と結婚。マデリーンは第7代準男爵のロバート・シンクレア卿と結婚し、後にチャールズ・フィッシュ・パーマーと再婚した。スーザンは第5代マンチェスター公爵ウィリアム・モンタギューと、ルイーザはブローム卿、後のコーンォリス侯爵と、そしてジョージアナは第6代ベッドフォード公爵ジョン・ラッセルと結婚した。

〈死去〉
 ジェーンは1812年4月14日(7)にロンドンのプルトニー・ホテルで亡くなり、5月11日にキンラーラに埋葬された。


著者注
(1) ジェーンの生誕については詳細に食い違いがあり、資料によって日付と場所が異なっていた。生まれたのは1748年から1750年の間、生誕地はおそらくエディンバラだと思われるが、モンリースの可能性もある。
(2) モンティースと表記されていることもある。
(3) ジェーンの結婚式の日付は資料によって異なった。『ラ・ベル・アッサンブレ』と『デブレット貴族名鑑完全版』では10月18日、『オックスフォード英国人名事典』では10月23日、『ゴードン公爵夫人ジェーンの生涯』の自伝的章では10月28日であった。
(4) ラクソール著『遺稿回想録』(1836年)より引用
(5) アマンダ・フォアマン著『デヴォンシャー公爵夫人ジョージアナ』より引用
(6) ホラス・ウォルポールが1791年にミス・ベリーに宛てた手紙(『3代にわたる魅惑的な女性たち』に収録)より引用
(7) ジェーンの逝去日は4月11日と記録されていることもあった(『デブレット貴族名鑑完全版』、『3代にわたる魅惑的な女性たち』)。

参考文献
Bell, John, La Belle Assemblée (1807-8)
Bulloch, John Malcolm, editor, The Gordon Book (1902)
Courthope, William, editor, Debrett's Complete Peerage of the United Kingdom of Great Britain and Ireland (1838)
Foreman, Amanda, Georgiana, Duchess of Devonshire (HarperCollins, 1998, London)
Gordon, Jane, Duchess of, An autobiographical chapter in the life of Jane, Duchess of Gordon (1864)
Lodge, Christine, Gordon, Jane, Duchess of Gordon (1748/9-1812) Oxford Dictionary of National Biography (Oxford University Press, 2004; online edn Oct 2007, accessed 8 Apr 2013)
Russell, Lady, Three generations of fascinating women and other sketches from family history (1905)
Wraxall, Sir Nathaniel William, Posthumous memoirs of his own time (1836)


出典
筆者 Rachel Knowles
Regency History "Jane Gordon, Duchess of Gordon (c1748-1812)"
http://www.regencyhistory.net/2013/05/jane-gordon-duchess-of-gordon-c1748-1812.html
2013/9/29アクセス
Copyright Rachel Knowles All Rights Reserved.


訳してみて
・野心家と聞いてイメージする政略結婚や社交だけでなく、
農業改革や徴募にも尽力したところが魅力的な人でした

・ネット上ではジェーンも夫の公爵も日本語のまとまった情報があまり情報がなかったのですが
(wikipediaにも独自の記事はなく、タータンや連隊のページにちょろっと出てくる程度)、
タータン再興の祖だったというので驚きました。

氏族によってパターンが違うというタータン。
ジェーンが接見会にまとって行った「ゴードンタータン」はこんな色合いだそうです↓
TartanClanGordon.gif
(※画像はwikipediaよりお借りしました)
濃青緑に黄色が映えてすてきです

ライバルとされているデヴォンシャー公爵夫人ジョージアナは、
映画『ある公爵夫人の生涯』でも題材となったためか、
日本語でも情報がだいぶ多かったです。

ジョージアナの好敵手であったというし、
今年の秋冬はタータンチェックも流行るらしいので、
タータンの宣伝や農業改革への尽力がもっと知られるように
日本語の情報ももっと増えるといいなと思います。

タータンやノーザン・ミーティングについても少し調べたので、
今度別記事にまとめたいと思っています。

反省点・課題
・人名の確認に時間がかかった。17世紀のスコットランド語の発音をどう確認するか。

・英語の人物説明だと必然的に多くなる名詞中心の表現(She was ○○)を
どこまで動詞中心に変えるか。

・貴族の社交関係の語彙に弱い。パーティーの種類、hostessのうまい訳語。

・引用前部分の訳し方のバリエーション


長くなりました。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました


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