歴史と本と翻訳と ~つばめ翻訳~

個人事業者つばめ翻訳。翻訳をめぐるあれこれを書いたり、海外記事を翻訳したりしています。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

PageTop

キャサリン・オブ・アラゴン

ブログ翻訳001

記念すべき第1回目は、充実した歴史サイトEarly Modern Englandから、
ヘンリー八世の最初の王妃、キャサリン・オブ・アラゴンの生涯についての記事をご紹介します。

アーリー・モダン・イングランドの管理者ピーターとサンドラにご快諾いただき、
お二人の管理しているサイトから翻訳した記事を計4本お届けする予定です。
お楽しみに!



「キャサリン・オブ・アラゴン」
(スーザン・アバネシー著)


 数年にわたる薔薇戦争の凄惨な混乱を経て、ランカスター家がついに勝利を掌中に収めた。ウェールズ生まれの王族の子孫であり、母マーガレット・ボーフォートからランカスターの血を受け継いだヘンリー・チューダーが、1485年、ボズワースフィールドでヨーク家のリチャード三世を打ち倒したのである。1486年1月18日、ヘンリー七世は、リチャード三世の姪でありエドワード四世の娘であるエリザベス・オブ・ヨークと結婚する。こうしてランカスター家とヨーク家は統合され、ヘンリーによって英国に安寧の日々がもたらされた。

CatherineofAragon-241x300.jpg

 ヘンリー七世と王妃エリザベスの間には、1486年9月20日に長子アーサーが、1491年6月28日に次子ヘンリーが誕生した。ヘンリー七世の英国王位継承権には疑惑の目が向けられており、一部にはヘンリーを簒奪者と呼ぶ声もあった。自分の立場を確固たるものとし国力を高めるため、ヘンリーは息子たちの結婚相手を国外から探し出した。ヘンリーが長子アーサーの妻に選んだ女性が、キャサリン・オブ・アラゴンであった。

キャサリン・オブ・アラゴンは1485年12月16日、スペインのアラゴン王フェルディナンド二世とカスティリャ女王イサベラ一世の末娘としてマドリードで誕生した。一流の教育を受け、古典語、文学、教会法、大陸法などを学び、スペイン語とラテン語とフランス語とギリシャ語を話すことができた。カトリックの教義のもとで厳しくしつけられたキャサリンにとって、その教義は人生と運命において大きな役割を果たすことになる。キャサリンは三歳で英国の皇太子アーサーと婚約する。

 1501年11月、英国に到着したキャサリンは、自分の夫なる人と初めて対面した。キャサリンとアーサーは10日後に結婚式を挙げ、すぐにウェールズのラドローに居を構えた。1502年4月、二人はともに病に倒れた。粟粒熱だったとみられている。アーサーは亡くなったが、キャサリンは一命をとりとめ寡婦となった。ヘンリー七世はキャサリンの持参金を彼女の父親に返却したくないと考え、アーサーの弟ヘンリー王子が年頃になったらキャサリンと結婚させることにした。

 それからの七年間、囚人同然となったキャサリンの暮らしは困窮を極めた。ヘンリー七世がキャサリンに生活費を与えることはほとんどなかった。父親に金を送ってほしいと懇願する言葉が彼女の手紙に遺されている。アーサーのもとに輿入れしたときに持参した貴金属や宝石類も売り払うしかなかった。1509年の夏、ヘンリー七世がついに崩御すると、キャサリンは自由の身となり、黄金の王子ヘンリーと結婚する。

 キャサリンとヘンリー八世は1509年6月11日に式を挙げ、24日にウェストミンスター寺院での戴冠式に臨んだ。キャサリン23歳、ヘンリーはまだ18歳だった。二人は同じように教養があり、多くの趣味をともに楽しんだ。本を読み、楽器を奏で、ダンスに興じ、多くの深い議論を交わした。キャサリンはすぐに身ごもったが、1510年1月に死産する。1511年1月1日には息子が誕生したが、わずか52日間の命だった。キャサリンは何度も妊娠したようだが、生き残ったのは1516年2月18日に生まれたメアリー王女ただ一人だった。

 キャサリンは自分の教養に磨きをかけ続けながら、娘の教育にも熱心だった。キャサリンの影響で当時女性に教育を受けさせることが流行したほどだ。1513年にヘンリーがフランスの戦場に赴くと、キャサリンは英国摂政として務めを果たした。ヘンリーのいない間に彼の英国軍はフロッドンの戦いでスコットランド軍を打ち破った。キャサリンが見守る中での大勝利であった。

ArthurCatherine-1-296x300.jpg


 魅力あふれるアン・ブーリンはキャサリンの侍女の一人だったが、1525年にはヘンリーをすっかり虜にしていた。男児の後継者に恵まれなかったヘンリーは、キャサリンが自分の兄と結婚していたことを理由に、彼女との結婚が呪われていると考え始める。1526年から1533年にかけ、アンはヘンリーの求愛を拒絶し続けていた。姉のメアリー・ブーリンのように王の愛人におさまる気はなかったのだ。また、アンの身内で強い影響力をもつハワード一族が、利権のためにアンを女王にしたがっていた。その数年の間にヘンリーはキャサリンに離婚を求めたが、彼女はこれをかたくなに拒んだ。キャサリンからしてみればアーサーとの結婚は成就しておらず、自分こそがカトリックの教義のもとで結ばれたヘンリーの真の妻だった。キャサリンは決して離婚に応じようとはしなかった。

 このような経緯で事態は行き詰まり、ついに王自身が動くほか方法がなくなる。ヘンリーに身を許したアンはすぐに身ごもり、行動を起こすよう彼に迫った。教皇がキャサリンとの離婚を許可しようとしないため、ヘンリーはカトリック教会と縁を切ることを決意する。自らを英国国教会の首長とし、ここに聖公会が誕生した。これによってカンタベリー大司教がヘンリーとキャサリンの結婚を無効とすることが可能となり、ヘンリーはアンと結婚した。

 これ以降、キャサリンはほぼ自宅監禁の状態に置かれる。城を転々とさせられ、娘に会うことも許されなかった。召使いの数は最低限に減らされ、食料や衣服のための金はほとんどなかった。1536年1月、キャサリンはついに病をえて亡くなった。遺体を解剖すると、心臓の中には黒い塊があったという。この誇り高きスペインの皇女は絶望のために命を落としたといっても過言ではないだろう。キャサリンはケンブリッジシャーにあるピーターバラ大聖堂に眠っている。

Catherine_aragon-228x300.jpg



参考文献(2013年6月現在 日本語版未刊行)
"Catherine of Aragon" by Garrett Mattingly
"The Six Wives of Henry VIII" by Allison Weir
"Divorced Beheaded Survived: A Feminist Reinterpretation of the Wives of Henry VIII" by Karen Lindsey


筆者紹介
スーザン・アバネシー Susan Abernethy
歴史ブログ『The Freelance History Writer』の作者。
女性史専門サイト『Saints, Sisters and Sluts』にも寄稿している。
"The Freelance History Writer"のFacebookページはこちら
"Saints, Sisters and Sluts"のFacebookページはこちら
スーザンをTwitterでフォローするならこちら

出典
管理者:Peter Konieczny and Sandra Alvarez 執筆者:Susan Abernethy
Early Modern England "The Wives of King Henry VIII: Catherine of Aragon"
http://earlymodernengland.com/2013/04/the-wives-of-king-henry-viii-catherine-of-aragon/
2013/7/12アクセス
※画像もEarly Modern Englandよりお借りしています。
Copyright Early Modern England. All Rights Reserved.
文字色

にほんブログ村 英語ブログ 英語 通訳・翻訳へ
にほんブログ村

にほんブログ村 英語ブログ 英語学習者へ
にほんブログ村
関連記事
スポンサーサイト

PageTop

コメント


管理者にだけ表示を許可する
 

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます

| | 2013-08-17(Sat)16:10 [編集]


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。